逃げる勇気。
世の中、1人だとかなわないことがほとんどだ。
だから、困難に立ち向かうことも時に大切だが、駄目だなと判断するやいなや逃げる勇気も必要だ。
それがあったからこそ、人類は他の動物に比べて圧倒的に弱いのに、こんなに地球に蔓延っていられるのだ。
PHOTO:© Azuki - Fotolia.com
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世の中、1人だとかなわないことがほとんどだ。
だから、困難に立ち向かうことも時に大切だが、駄目だなと判断するやいなや逃げる勇気も必要だ。
それがあったからこそ、人類は他の動物に比べて圧倒的に弱いのに、こんなに地球に蔓延っていられるのだ。
PHOTO:© Azuki - Fotolia.com
こどもって漢字では「子供」と書く。
これがあたりまえだと思ってたら、最近は「子ども」と書かないとダメらしい。
確かによく見てみると、雑誌とか新聞とか看板とか、「子ども」って書かれているのがほとんど。
娘の幼稚園のお手紙とかにも「子ども」って書いてあった。
それは、なんでも『子供』は差別表現だからなんだそうだ。
子供の『供』という字はお供の『供』で、付属物の扱いみたいだから良くないと言う見解らしい。
もうね、これじゃ何だって「差別だ!」って言えば差別扱いになっちゃうぞ。
父兄って表現もダメらしく、父母が正しいんだとか…。
もう何が何だか…。
ホントにバカバカしい。
前回の続きの話になるが、タイ人が頑張りますの意味で『パヤヤーム』を使う場合、ハナからやり遂げる気がない場合が多い。
先述の「日本語の勉強をがんばれ」に対して、奥さんが「うん。がんばるよ!」と『パヤヤーム』を使って返答したので、「努力はするけど、どうかな?」というニュアンスをボク感じた。
このように、タイ語みたいにキッチリと使い分けれれば、ヘタな勘違いが発生しなくてイイのだが、まあこの曖昧さこそが日本の文化なのだから、そんな曖昧さを楽しめるようになりたいものだ。
追伸
タイの超大御所歌手 バード・トンチャイが、今回の震災に対する支援ソングを歌っています。
なんだかとってもありがたいです。
→YouTubeで観る
震災で苦労している人、絶望している人に向かって「がんばって!」と言うのは、もう十分すぎるほど頑張っている彼らに失礼だと言う論調がある。
確かに、“がんばれ”を「努力しなさい」と捉えれば、その論調は正しいと思う。
でも、日本語の“がんばれ”には、「もうしばらく辛抱してください」という意味も含んでいるんじゃないだろうか?
と言うのも、日本語の“頑張る”をタイ語の辞書で調べると、พยายาม (パヤヤーム)とอดทน (オットン)の2つがヒットする。
で、今度はそれを逆引きで調べると、パヤヤームは“努力する”一方のオットンは“我慢する・辛抱する”となるのだ。
確かにボクも、タイ語での日常会話ではこのふたつを使い分けている。
もう5年近くも日本に住んでいるのに、一向に日本語が上手くならないウチの奥さんに対して、「もっと日本語の勉強をがんばりなさい」と言う場合は、パヤヤーム。
先日の地震で停電が続いている間、怖がっている奥さんに対して、「もう少しの辛抱だからがんばってね」と言う場合は、オットンを使ってた。
オットンとは、思い通りにならない時には、それが思い通りになるように願って待ちましょうというニュアンスがあるのだ。
だから、被災者に向けて「がんばって!」と言う場合、一般的にはオットンの意味で言ってるので、失礼ではないとボクは思う。
まあ、言葉は受け手側がどう捉えるかで決まってしまうので、受け手が「失礼だ!」と捉えてしまえばそれは失礼なことになってしまうのが言葉の難しいところなのだが…。