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ニール・ドナルド・ウォルシュ著『神との対話』という本に、こんなことが書いてあった。
宇宙には良い状況も悪い状況もないことを第一に理解しておくべきだ。すべてはあるがままにすぎない。だから、価値判断はやめなさい、と。
そう。あくまでボクたちが普段使っている『良い』『悪い』は、それぞれが自分の価値基準で判断しているに過ぎない。
だから、自分にとっては「悪い」ことでも、他人から見れば「良い」ことだったり、その逆も多々ある。
今、正直言ってボクはボクの中の価値基準で悪い状態なのだが、そう決め付けるのは良くないんだね。
自分の狭い価値基準に囚われたり、決め付けたりせず、広い視野と大きな心を持たなきゃね。
うん、少し楽になった。
でも、この言い方は気をつけたほうがイイ。
なぜなら、そこには『意図』が表されていないから。
本当は「~のために○○をしてくれ!」と言うべきなのだ。
でないと目的がわからないので、こちらの意図したモノやコトとは違うモノやコトが出来上がってしまいかねない。
例えば、「お茶をくれ!」と言ったとして、たまたまお茶が切れていた場合などどうだろう?
このとき、“お茶”というキーワードだけを尊重しすぎてしまうと、言われた人は急いで近所へお茶を買いに出かけかねない。
でも、こちらの意図した意味が“今すぐ何か飲み物を飲みたい”だったとしたら、別にお茶じゃなくてコーヒーでもジュースでも良いし、“寒いから温まりたい”だったとしたら、そもそも飲み物じゃなくてカイロや毛布を渡したってイイのだ。
まあ、ここまで行くといわゆる《KY》だと言っても過言でないかもしれないが、それでもキチンと「喉が渇いたからお茶をくれ!」と、「寒いから温かいお茶をくれ!」と、意図を伝えていれば、こんな無用な混乱は起きない。
なので、誰かに何かを指示するときは、きちんと意図を添えることが適切なのだ。